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まんなか。

2009.09.14 Mon
ブログでもアナウンスしましたが、

今日は当院で、「神戸バランス講習会」が

行われました。


6名の方に参加してもらいました。

みなさん遠方よりおいで下さりありがとうございました。


土曜日の夜には、講師の小関さん(http://kab.dreamblog.jp/)を

三ノ宮駅で向かえ、そしてそこから「食蔵」というお店で、

ご飯をご一緒させていただきました。


二人とも東北出身ということで、東北の話や、

バランスの話、そしてなぜか「科学」の話で

大変盛り上がりました。


僕は昔から、図書館で天才の本を読むのが好きでした。

ニュートン、アインシュタイン、モーツァルトの生涯を

マンガで描いてあるものです。


「いつかこの人たちみたいに本に載りたいな。」

なんて漠然と思っていました。


小さい頃から、自分の興味を持ったものは、勝手に

とことんまで追求する方でした。

材料は家の周りに溢れていたので、

今思うと、いろいろ実験していたんだと思います。

憧れの科学者のように。


なぜ、彼らが本になるかといったら、

確かに彼らが残した様々な輝かしい業績もそうなのですが、

それだけじゃなく、その生き方、人生におもしろみが

あったからだと思います。


彼らは専門家ですが、

たまたまそこが一番飛びぬけていただけで、

様々なものに興味があったんだと思います。

彼らには総合的な知性というベースがあったんでしょう。

でなければ、ただのオタク、マニアな科学者だったら、

彼らが語ったその言葉に、今の時代でも響く

深みは帯びなかったでしょう。


なんか専門家、研究者、科学者っていったら、

暗い研究室にこもりっきりで、

なんか変わってて、

近寄りがたいってイメージですが、

天才達ってそうじゃないと思います。

そういう部分だけが誇張されているだけで、

総合的な知性はあったはずです。

僕はそう思っています。


なんか今の研究は、マニアック研究で、

今の時代は、科学者にはなりたくないですね。

なんかそこを競ってても意味ねーよって。


もう出るとこは出たんだと思います。

そこからまた世紀の大発見をしようと思ったら、

見方を変えないといけないかもしれませんね。


僕はクリニックに来て、医学というベースの中で

仕事をしています。

そこでは数字が重要視され、論文を見たり、書いたり、

それが「科学的態度を持った」トレーナーないし、

理学療法士となっている気がします。


でも、数字をいじることが科学ではないし、

因果を証明することはできないと思うし、

相関はたまたまそこの部分だけ見たら

そうなってますよって作り話だし、

客観性って言うけど、「私」が研究している時点で、

もうすでに主観を含んでいるし、

そもそもなんでそんなに「科学」に寄りかかってるか

よくわかんないし…


納得いきません。笑


科学者に憧れた僕としては、

科学は道具ではないと思っています。


「自分の治療の根拠にしたい。」

「患者さんに説得力ある説明をしたい。」


それってどうなん?


確かに必要なんだと思うけど、

僕としては、僕のほうが「科学的態度」をしていると思っています。


科学ってそんなもんじゃない。


なんだかこの話をすると、「酒」の話を思い出しちゃいます。


僕の親父は、秋田で酒造メーカーに勤めていました。

40年以上です。

出羽鶴っていいます。

酒に生涯を捧げた人です。

本当に酒を愛している。

そんな親父を見て僕は育ちました。


そんで愛知の大学に行って、そこで本格的に

酒を飲み始めたのですが、

僕はそこで日本酒は飲みません。

ビールしか飲みません。


だって、日本酒は親父が生涯をかけたもんだし、

簡単には飲めません。


学生が日本酒を飲むときなんて、

「酔いたいから」です。


僕は愕然としました。

「親父の生涯をかけたもんが、ここでは道具にされてる。」

って。


なんだか僕には医学で言われている科学と、

この酒がなんだか重なりました。


「そんなもんじゃねー。」

って叫びたいな。

でも、僕も完全に科学を知っているわけじゃないけど。


でもね…。


って話がかなり広がりましたね。笑

こんな話で、年上の小関さんと食蔵で語り合っていたんです。

楽しかった。

久しぶりに話が通じた。




そして、今日の講習会…


天気も良くて、講習の内容にも、また新しい気づきがあって

とても充実した一日になりました。


あえて不安定な場所に、自分を置くことで安定に気づいていく。


私は私のことを何も知らない、もし私を感じられるとしたら、

他人を知った時である。

他と触れ合うことで、なんとなく私の存在に気づき、

様々な他により、その私がおぼろげながらに感じてくる。

他人の私を呼ぶ声が、私を私にしてくれる。


そんな他が、今日は様々なバランスボードでした。

丸いバランスボード、

一本下駄、

堺マチャアキが紅白で乗った筒みたいなやつ、

でこぼこが付いた板、

藁納豆みたい形の棒

などなど、そんなモノに触れながら、

自分のバランスを感じていきました。


おもしろいことに、講習前に痛かった右腰は、

遊んでるうちにどっかにいってしまいました。


バランスが取れているってことは、

ちょうど「中庸」の状態なんですね。

どこにも偏らない。


でもどこにも偏らないなんて、

どうやってわかるのか?


人間、極端は実感しやすいですよね。

でもちょうどいい感じってなかなかわからない。


それが、不安定な場所に身を置いて、

そしてそこでバランスが取れてくると、

それが「中庸なのかな?」って気づいてくる。


そしてその中庸を身体のどこかで感じられると、

身体も自然に中庸になって整っていく。


僕の場合は、足で中庸を感じられると、

その上のものが整ってくる感じがしました。


う~ん、おもしろい。


小関さん、おもしろい人です。

今日は本当にありがとうございました。

感謝です。


またこのブログにアナウンスさせていただきますので、

ブログをご覧の方は是非ご参加ください。


また明日からがんばりましょう。

まんなかが一番。

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