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Rolferという種類の人間になるまでの、少しの間。

2011.11.10 Thu
ただ今、Rolfingのトレーニングの最終日で、

最後のインタビューを待っています。

つまりは、それが終わると、

僕は晴れてRolferになるわけです。

最初にRolfingのセッションを受けたのが、

2009年の9月だったので、

もう2年が経ったことになります。

もう終わってしまうのです。

小さい頃に、秋田の田舎にしては珍しく、

親戚の中に海外でバリバリ働いている人がいました。

ITなんて言葉が、テレビでよく目にするようになるもっと前から、

ITの仕事をアメリカと日本を行き来しながらしていました。

彼は、僕の母校の中学校の卒業生としては、

初の東大に入学して、卒業した人です。

なかなかおもしろい受験エピドードを持っていて、

本も書いています。

たまに、テレビに出たりもします。

彼が、たまたま日本の行事の中でも、

親戚一同が集まるような時に、

日本にいて、そして休みがあることは、

なかなか簡単にあることではなかったので、

たまに会う時に聞かせてくれる、

海外の話はとても新鮮でした。

いつも、きらきらした宝石を眺めるかのようでした。

その頃からだったと思いますが、

なんとなく「海外っていいな」って思いを、

漠然とながらにも持つようになりました。

でも実際には、

小中高と野球に明け暮れる日々だったので、

そんな漠然とした海外のことよりも、

甲子園って関西にある球場に行くことを考えていました。

野球ばっかりしていたので、

勉強はあまり好きではなかったのですが、

小中高と、常に学年ではトップクラスの成績でしたし、

モテたは言いませんが、常に彼女はいました。

つまりは、調子に乗っていたわけです。

高校も3年生になり、

「世の中、なんとでもなるな」と思っていた僕は、

あれだけ夢中に練習した野球は、

自分のエラーで、最後の試合に負け、

深い挫折を味わいました。

(今でも、詳細に夢を見ます)

なんとなく中途半端に終わってしまった、

野球への情熱の行き場を、

みんながしている受験勉強って流れに一応乗っかって、

見つけることにしました。

勉強をあまりしなくても成績はよかったので、

受験勉強のまねをするだけでも、

毎回の模試の成績は、

右肩上がりに伸びていきました。

何だかおもしろくもなってきて、

「どこまで成績が上がるかな」と思い、

学校を1ヶ月休み、

仙台のビジネスホテルに住み込み、

代ゼミに通いました。

そして、その結果が、

第一志望の筑波大学に落ちて、

「滑り止めなんて興味ありません、滑りませんから」

なんて言っていた自分が恥ずかしくなるのですが、

そこからセンター利用だけで受験できる私立大を探し、

適当に何校かに書類を送るという始末です。

もう卒業式も近くなってきて、

もう大学進学の決まった友達と酒を飲みまくって、

酔ったまま学校に行ったりして、

残りの高校生活を楽しみにました。

感慨深いかなと思っていた高校の卒業式も、

いつのまにか終わってしまって、

僕は、なんだかよくわからないカテゴリーに、

身を置くことになったのです。

高校生でもない、

大学生でもない、

大人でもない、

子供でもない、

なんだかよくわからないカテゴリーです。

一応、何もしないわけにはいかないので、

母親と仙台の予備校に入学申し込みを済まして、

入学までは間は、

パワプロのサクセスモードで、

いかに完璧な選手を作るかってのを、

熱心にやっていました。

そんなある日、

「勇太、中京大学ってところから手紙が来てるよ」

と母親に呼ばれました。

「は、何のこと?」

って思いましたが、すぐに思い出しました。

そういえば、センター利用だけで受験できる私立大に、

僕は書類を適当に送っていたのです。

そして、中京大学という大学に受かったのです。

すぐに、自分の部屋に行き、

中京大学のパンフレットを見ました。

おしゃれなパンフレットだったので、

「あ、ここに行こう」

とすぐに思いました。

住所を見ると、なんと愛知県。

けど、秋田人にしては珍しく、

ドラゴンズファンだったので、

「うわ、ラッキー」

とさえ思いました。

そうして、予備校の入学もすぐにキャンセルして、

手紙が届いた次の日には、

まだまだ雪降る、3月の終わりの秋田から、

新幹線で7時間ほどかけて、

大都会名古屋に母親と来ていました。

そこから中京大生なってからの僕のストーリーは、

このブログに今まで書いてきました。

なので、繰り返しはやめておきます。

そこで様々な人たちに出会い、

僕の人生は大きく変わっていったのです。

中でも、トレーナーとしての勉強をし始めたことは、

僕の中でも大きな転機となりました。

トレーナーの勉強をしていく内に、

否が応でも、「アメリカ」の姿が、

僕の視野の中に入ってきました。

アメリカといえば、

トレーナーという職業の発祥の地であり、本場です。

そこでまた、小さい頃から憧れていた、

「海外での生活」

という夢が、僕に近くに現れたのです。

大学の2年の夏には、

初の海外で、アメリカのGeorgia州Atlantaに行きました。

中京大学の大きさだけでも感動してたのに、

Georgia州立大の規模と言ったら、まあ。

僕は、目に入ってくるもの全てが新鮮でした。

今、iPhotoの中に入ってある、

その時に撮った写真を見返しても、

きらきらした無邪気な僕を見ることができます。

それほどに、初の海外に感動していたのでしょう。

その初めての海外滞在の後に、

「MLBでS&Cコーチをする」

という具体的な目標を持ち始めました。

大学時代には、会う人会う人に、

その目標を語っていきました。

そして、「本当に行ける」と信じて、

全く疑いませんでした。

大学を卒業した後すぐには、

2回目のアメリカに行きました。

今度はFlorida州Orlandです。

前回は10日間だけでしたが、今回は1ヶ月で、

なんとMLBでのインターンです。

ワシントン・ナショナルズというチームでした。

ここでの経験は、昔のブログを見てみても、

最初の滞在とは違って、なかなか苦い経験で、

英語の壁にぶつかり、なかなかコーチ、選手と、

コミュニケーションが取れず、

悔しさだけが残ったアメリカ滞在になりました。

そこから僕は、

大阪でトレーナーとしてのキャリアをスタートして、

月収7万からスタートして、なんとか11万まで上がって、

そこからご縁があり、

神戸の須磨のスポーツクリニックで働き始めました。

このクリニックで働かせてもらう前に、

院長先生と、須磨駅の近くのうどん屋で話したのですが、

「僕は、MLBでS&Cコーチとして働く夢があります。

 ですので、3年後には辞めさせて下さい。

 その間は、一生懸命働かせていただきます。」

と伝えたのを覚えています。

とても理解のある、熱い院長先生だったので、

「わかった」と言ってくださって、

そんな若造の戯言を受け入れてもらいました。

しかし、そうは言ったものの、

なかなか、具体的なアメリカへの道は見えず、

ただただクリニックの多忙な日々に追われて日々が続きます。

その頃から、

「本当に僕はアメリカに行けるのだろうか」

という疑いが、見え隠れするようになりました。

須磨での生活も慣れ始め、

クリニックで働き始めてから2年が経った時、

その日が訪れました。

Rolfingのセッションを受けたのです。

佐藤博紀さん(ヒロさん)が僕のRolferさんですが、

(彼のHP、http://www.at-hiro.com/)

ヒロさんの名前は大学から知っていました。

なぜなら、ヒロさんはアメリカに長く住んでいて、

そして、アメリカのNFLでATCとして働いていたこともあり、

アメリカで働くことを夢見ている人は、

その情報集めていく段階のどこかで、

ヒロさんの名前に出会うことになると思います。

それほど、よく名前が知れた人だったのです。

ずっと「会いたいな」なんて思いながらも、

「じゃあ、どうやって会うんだろ」と思ってもいたのですが、

そのヒロさんが、アメリカを離れ、

日本に帰ってくることになったのです。

しかも、何やらトレーナーとしてではなく、

ロルファーということで活動するらしいと。

そこで、2008年の関西であったWSに参加して、

そのWSのメインプレゼンターだったヒロさんに会って、

そこからヒロさんとの交流が始まりました。

大学の4年の時に、

山本邦子さんが主宰されている、

A-Yoga(現、A-Yoga Mind and Movement Therapy)の、

インストラクターになり、

自分のからだへのawarenessを高めることにはとても熱心で、

「自分のからだは、自分で何とかする」

ということにこだわり、

マッサージなど、他人の力を借りるものには、

全く興味ありませんでした。

ということで、

トレーナーの勉強はしていましたが、

マッサージの勉強はしていませんでした。

そんな僕が、なぜかRolfingを受けたのです。

「ヒロさんだったらいいかも」と直感しました。

そして、気づいたら、

セッション1をベッドの上で受けていて、

そのセッションが終わって、地面に立った時には、

「よし、これを学びに行こう」

と心に決めていました。

そこからの流れは、あまりにもスムーズすぎて、

僕も、いまだにうまくつかまえられません。

あんなにはりきって

「僕はMLBで働くので3年で辞めます」

と言ってみたものの、

2年間で何か具体的なことをしたかと言うと、

何もしていなかったように思います。

けれど、「Rolferになる」と決めてからは、

何か歯車がかみ合ったような、

機が熟したかのような、

おもしろいように事が進み、

次に気づいた時には、

僕はアメリカのBoulderという地に立っていたのです。

あの夢にまで見た、

「海外での生活」が始まったのです。

こんなにも静かに、そして自然に。

unit1の前は、

もう何が起こるかも全く予想もつかず、

海外での授業の進み方も検討もつかないですし、

ましてや、Rolfingの授業となると、

ヒントすらないような状態です。

さらに、英語で授業を受けたこともないですし、

マッサージのように、クライントに触れる経験もなかったので、

不安だらけでした。

unit1が始まる前夜の緊張といったら、

当分忘れられそうにありません。

でも、そんな2010年の6月から始まったunit1は、

素晴らしい先生、そしてクラスメイトに恵まれて、

アップアップな毎日でしたが、

それでも楽しく学ぶことができました。

もちろん、英語で苦労することばかりでしたが、

それでも、周りに迷惑をかけるほどではなかったと思います。

無事にunit1を終えることができた時は、

本当にうれしかったです。

「ああ、僕はやれたんだ」と。

unit1と2の間は、半年ほど時間があったので、

自由気ままに過ごしました。

Boulderという、奇跡的にきれいな街に住んでいたので、

その街を、目的もなく歩きまわったり、

気に入ったカフェで本を読んだり、

アメリカ国内も旅をしたり、スキーに行ったり、

いろいろな経験をさせてもらいました。

Boulderも雪に包まれることが多くなった、

2011年の1月からは、

unit2が始まりました。

いよいよ、Rolfingの骨格となる、

”Recipe”を学び始めたわけです。

Rolfingをつくった、Ida Rolfの人生が詰まった、

10回のセッションからなるRecipeです。

unit2のRayは、本当に素晴らしい先生で、

Rolfingの美しい可能性を見せてくれました。

Rayのデモでは、毎回magicを見ているようで、

(本人はmagicという言葉を使うのを好みませんが)

毎回見とれていました。

このunit2で、

「Rolfingとはテクニックではなく、プロセスなのだ」

という確信を得て、

そして、それは人の生きていくプロセスで、

僕自身が、僕の奥を掘っていって、

真ん中に向かって行くというプロセスを経ないと、

決して、セッションは深くはならないし、

人の生きていくプロセスに寄り添えないなと感じていました。

そして、そんな美しいunit2が終わり、

それから次のunit3までは、

「大友勇太っていう人間は、どんな人間なんだろう」

という問を深めるような時間になりました。

それは、決して答えのない問です。

下手をすると、その出口のない問題の中に迷い込み、

戻ってこれなくなったり、

その形のない問題に食われてしまって、

立ち直れなくなってしまいます。

なかなか危ないプロセスでしたし、

生傷のも絶えませんでしたが、

すぐ近くには、手を差し伸べてくれる仲間がいたので、

かなり奥まで自分を掘ることができました。

そうして、1年と1ヶ月住んだ、

Boulderでの夢の時間は終わり、

日本の秋田に帰ったのです。

久しぶりに、

もう70近くなった両親、

15歳離れた兄貴、そして姪、

たまに甥との生活が始まりました。

別にすることなどなく、

父親が「ちょっと手伝え」と言ったら、

一緒に長靴履いて、田んぼや畑、

山の中に行ったり、

母親と温泉に行ったり、

姪の試合を見に行ったり、

兄貴と野球の試合に出たり、

そんなことしていました。

家族と時間を共にするようになり、

そして、秋田の大曲という、

自分が生まれ育った土地に戻ったことも関係したのか、

その頃から、

「そろそろ、もっと大人にならなきゃな」

と思うようになってきました。

なぜかはわかりません、

けど「このままじゃいられないな、大人にならないと」

と直感しました。

そうは思っても実際には、

いつも両親に怒られていましたし、

友達と遊んでばっかりだったので、

大人への階段は、

逆に下っているような感じでした。

夏になり、

地元の自慢の花火大会も終わり、

いよいよ、Rolferになるための最後のトレーニングのunit3が、

ブラジルで始まるのが近くなってきました。

夏の終わりの憂鬱が影響しているのか、

気持ちが落ち着かず、

居場所のない気持ちは、

当てもなくふらふらすることが多くなりました。

父親に空港まで送ってもらって、

何だか胸が締め付けられて、

妙に切ない思いをしたのを覚えています。

秋田から東京へ、

そして、11時間×2のフライトを経て、

僕はブラジルの地に立ちました。

つかまりどころを失った不安は、

unit3が行われる、Barra do Sahyの美しい海を見たら、

いつの間にかどこかに行ってしまいました。

そんなきれいな場所で、unit3が始まり、

クラスにはunit1、2が一緒だった、

Kenlyn、Raphael、そしてRobynがいて、

他にはコロンビアから1人、

日本人は、僕の他にも6人もいました。

unit3のメインの先生のTessyは素晴らしく、

Rolfingそれ自体としてではなく、

「Rolferとして、何ができるのか」

を見せてもらいました。

Rolferとして、いかに生きるのか。

本当に学ぶことが多くて、

普段は最短でも3ヶ月かかるmoleskinの換え時が、

半分ほどの時間になりました。

今までの僕の中で経験してきたこと全てが、

Rolfingという一つの場所に収まった感じです。

高校まで野球をしてきたこと、

日本中を旅したり、お遍路をしたりしたこと、

たくさんの本を読んだこと、

海外で暮らしたこと、

トレーナーとして、患者さん、

そしてトップアスリートと時間を共にしたこと、

それらが、地図の中の”Rolfing”という場所に、

ピンで括りつけられました。

いつでもそこから始められるし、

迷っても、そこに戻ればいい。

どこまで進んだのかも、そこを振り返れば、

知ることができる。

限りなく、僕とRolfingが近くなり、

僕のことを語ると、Rolfingになるし、

Rolfingを説明しようとすると、

僕のことを語る必要がある、

そんな感じなりました。

unit3で、僕は、

「Rolferという種類の人間」

になっていったのです。

テクニックを習って、

そういうのを、外から僕の頭の中にインストールしたのではなく、

僕はRolferになっていきました。

それは、いつの間にか、

自分を大人にしてくれていたようにも思います。

久しぶりの実家で、

ずっと振り続ける雨を見ながら、

漠然と思った、

「ああ、そろそろ大人にならないとな」

という感覚は、

ここブラジルのunit3で、

自分の姿を見つけることができたように思います。

いよいよ、不思議と始まってしまったこのプロセスは、

一つの区切りに向かっています。

何だか不思議な気持ちで、

小中高、そして大学と、

卒業式は何回か経験したことがありますが、

どれとも参照できない気持ちです。

うまく言葉になってくれませんが、

けど、こうやって「Rolferになってしまうまでの間」に感じたことを、

だらだら書いておいた方が、

何だかいいような気がしたので、

今、これを書いています。

どうかこの文章が、

またいつかの自分をゆるす、

そんなものであるように。

では、行ってきます。




Yuta
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